要旨

 物質の情報を得る手段の一つとして、物質に光を当てそのエネルギーで分子の振動や回転を励起させ、そのエネルギーから分子の構造を特定する分子分光法が挙げられる。そして分子の振動と回転のエネルギーに対応する光の波長は赤外領域にあるので、赤外光を用いれば分子の振動と回転の様子がわかる。これが赤外分光法である。
この赤外分光法には情報分解能に優れているという長所がある反面、測定感度が不充分であるという短所を持っている。しかしこの短所は、AuやAg等の自由電子金属の薄膜を用いることによって補うことができる。この方法を用いると試料の赤外吸収が大幅に増大することが確認されている。この赤外域における吸収増大は電場の二乗に比例するので赤外吸収の増大は自由電子金属薄膜による局所電場の増大に関係していると考えられている。
以前は、表面プラズモンポラリトン(SPP)がこの赤外吸収増大の大きな要因であると考えられてきた。SPPは一般に金属の連続膜状に生じるが、平坦な金属表面に直接光を入射して励起することはできない。そのため、赤外域の測定では高屈折率プリズムを使用するATR法を用いる必要があった。またATR法は1〜2μm程度の比較的浅い表面層の平均的な分析が可能であり、被測定物質がいくら厚くてもプリズムとの界面を測定できると言う特徴がある。これは透過法と比べて赤外光が媒質を通過することが無く媒質による妨害が少ないという利点がある。しかし近年、SPPは赤外吸収増大に対する大きな要因では無いことが解り、ATRを使った実験はほとんど行われなくなった。今までATRを使った多くの結果があるが、超高真空で行われたものは無い。つまり今までの結果には汚染等の影響の可能性が少なからず考えられ、自由電子金属薄膜と被測定物質との本来の姿を観測したとは言えない。
そこで本研究ではUHV環境でATRを用いて測定し以前の結果と比較する事で、赤外吸収増大に対するATRの本来の性質を評価することを目的とした。
今回の実験はGeプリズム底面にAgを蒸着させ超高真空中でメタノールの導入による吸収の変化を測定した。まずAg薄膜による反射率の変化から膜のパーコレイションスレショルドが3.6 nm付近にあると考えられる。次に吸収の変化を考えると、薄いものでは吸収強度の偏光による大きな違いはなくピークの変形も見られなかった。スレショルドに近づくにつれてP、S両偏光とも大きく変形しS偏光ではピークの逆転が見られた。吸収強度は特にP偏光において大きく増大した。さらに膜厚を増やすと、S偏光ではほとんど吸収が見られず、P偏光においても減少の傾向に有り、薄いものと比べて1/10以下であった。これらの結果を既に報告されている大気中で測定したものと比較して見ると、増大率、偏光依存性に対して同様の膜厚依存性が確認された。また吸収強度に関して、最も大きいもので最大6倍であった。以前の研究ではポリマーを被測定物質に使用した例では3倍、PNBAを使用した例では300倍になったと報告されているが、この吸収増大の違いはAg膜と被測定物質との間の電荷移動によるものである事が確認された。
Ag蒸着膜を用いたメタノールの導入実験という条件で透過法と吸収強度を比較すると、透過法では10倍であったのに対しATR法では6倍であった。しかしATR配置に由来する電場強度の増大による吸収増大を考慮すると吸収強度自体は透過法より大きい。これらの事より超高真空下でのATR法は赤外吸収増大に対する測定に対して場合によっては有用であると言う結論に達した。