さらばシベリア鉄道

 

I. モスクワ

 

 199910月、私は夕闇迫るモスクワ、シェリメティワ空港に降り立った。秋のロシアであったが、思ったほど寒くはなかった。手荷物受取所に行くと、体格のいいポーターがすかさず私を見つけてよってきて、肩にかけた方の荷物を奪うようにしてキャスターに乗せ「Tokyo?」と聞いてきた。いやにサービスがいいなと安易に思いながら「Yes」と答えたが、直後に「やられた」と気がついた。この光景はどこかで見たことがあるぞ。そうだ、インドだ。北米やヨーロッパではこのようなことはないのだが、これはまさにアジアだ。あとは、お決まりのコースで、このポーターの仲間のタクシーまで連れて行かれ、ターミナルIまで、運んでもらって、ポーターに200P(1000)、タクシーに800P(4000)支払った。空港の照明は概して暗い。そういえば、日本はどこでも明るすぎるような気がするなあ。

 夜中の1:10発のモスクワ発エカテリンブルグ行きを待つ。モスクワ空港は24時間空港で、真夜中でも客でごった返している。長い列に並んで、やっとsafety checkの順番がきたと思ったら、エカテリンブルグ行きはまだだから、元に戻れといわれた。しぶしぶ戻ると、直後にエカテリンブルグ行きの受付を始めるアナウンスが流れた。「なんでこんなに融通がきかんのかね」。旧ソ連時代の堅苦しさを垣間見たような気がした。

 

II. エカテリンブルグ
 

 時差の関係で、早朝暗闇のエカテリンブルグへ到着する。この旅の最初の訪問先であるロシア科学アカデミー金属物理学研究所のYuri Babanov教授が娘婿のマイケル(ミッシェル)と出迎えにきていた。真っ暗な道を走り、市街地へ向かう。朝靄の町はますますニューデリーに似ているような気がする。Yuriは「ここはアジアである」と断言した。かつてエリツィンが住んだという高級アパートは市の中央広場に面した一等地にあった。階段を上る途中は廃墟かと思ったりもしたが、家にのなかは小奇麗な部屋が4部屋続き、見たところ、贅沢なものは何一つないが、熟年夫婦が二人生活するのにちょうどいい具合になっているようだ。奥さんの名前はイレーナ(レナと呼ばれる)。大学で講師をしているらしく、週に2回くらい、午後に講議にでかける。もともとX線の研究者らしく、研究所でYuriと出会ったらしい。ロシアには同業者の夫婦が多い。(あとで出会うYuri Rutz教授のところもそうである)。レナは片言の英語を話す。

 翌日は日曜日なので、娘さんの家族と一緒に、ヨーロッパとアジアの分岐点(オベリスク)を見に行く。ウラル山脈の分水嶺である。ここから西をヨーロッパ、東をアジアと呼んでいる。ヨーロッパ的なものとアジア的なものとの違いに興味を持ちつづけていた私にとって、この旅の第2の目的が2日目にして達成できるとは幸運であった。ウラルの発音はロシア語ではユーラルに聞こえる。ヨーロッパはウラルの向こうという意味らしい。沢木耕太郎のバイブル的長編「深夜特急」によれば、お茶を指す言葉が、「ch」から始まればアジアで、「t」から始まればヨーロッパ文明ということになる。なんと、ロシア語でもお茶のことを「チャーイ」という。やはり、ここはアジアであった。ロシアもわれわれと同じ、「くつろげる国」である。娘さんはジュリーといって精神科医。子供のころは数学の神童と呼ばれたらしいが、父親の期待に添わず、医学の道に進んだとのこと。夫のマイケルは電気照明店で器具のトレーダーをやっている。もともとラジオ技師で機械いじりがすきなのだが、今の世の中品物を動かす職のほうが儲かるので、しかたなくやっているらしい。ロシアの復興を願う、若者の代表である。二人には8歳のソーニャと6歳のデュマがいる。子供たちも学校で英語を習っているので挨拶ができる。

 さっそくボルシチをご馳走になる。世界各国どの料理につけ本場のものはやはりおいしい。一度にたくさん作っておいて、食事ごとに食べられるだけ食べて、あとはなべごとベランダで保存する。冷蔵庫は必要ない。ロシアの家庭では、大体が、多めに作っておいて、少しずつ食べて、次の食事にまた出すという具合で、効率的であった。日本も30年くらい前はそのような食べ方だったよなあ。食事のマナーもなんとなく親しみやすいものであった。食卓にご馳走が並べられると、それぞれが勝手に食べだし、終わったらさっさとお茶を飲んで席を立つのだ。なんとなく、日本の忙しい農村の食事風景のようだ。

 

III.ロシア科学アカデミー「金属物理学研究所」

 

 翌日は月曜日で、いよいよ金属物理学研究所にでかける。古めかしい建物が並んでいる。天井が高い。建物の入り口の守衛室には、長いこと務めていそうなおばさんが猫といっしょに座っている。埃がたまっていて薄暗いこの光景をみて、失礼にも「ああ、ソ連はこうして崩壊したのか」と感じてしまった。さっそく、副所長を表敬訪問する。50才くらいの若さで、同席した教授たちより若いが、厳格そうで怖い。教授たちも言葉を選んで、話をしているようだ。まあ、私が学長と話すときもこんな感じか。副所長は行政マンなのだけれど、さすがに金属磁性のことをよく知っている。もとは研究者だったのだろうか。さっそく、副所長から公式な共同研究協定を結べないかと提案された。とっさに「それは可能です」と答えてしまい、あとで大変なことになる。

 その後、数人の研究者を訪問する。一人目は高圧物理学の若手の研究者だった。名前はピリューギン博士。血気盛んな、ナイスガイといった感じ。見上げるばかりの高圧装置の前で重厚壮大なロシアを感じた。次は、電子分光のサハロフ教授。英語が苦手のようでロシア語をYuriに英語に翻訳してもらって話を聞いた。古めかしいがオリジナルな装置が並んでいる。話好きな人で、通訳がいなくなってもロシア語で話しつづけていた。テクニカルな言葉はわかるが、それだけでは内容は理解できなかった。3人目は磁性のメンシュコフ教授。私の研究課題であるNiMnについてよく知っており、これはうかうかできないなと気を引き締めた。会っていきなり、NiMnで何を知りたいか?ときかれ、すぐには答えられなかった。後で聞くところによると教授は以前NiMnの磁性に精力を傾け、スピングラスの概念を最初に見つけた人らしかった。その栄誉は2番手の発見者にさらわれることになるのだが。しかし、彼はこれまでのNiMnの磁性の結果には満足しておらず、中性子散乱から決められたMnの磁気モーメントは、その相互作用時間が10-12秒であることから、実はZ方向に射影された磁気磁気モーメントのみを観測していると考えている。その点、K吸収端のXAFSは相互作用時間が10-16秒と短いので、より正確な磁気モーメントを決定できる方法であると確信している。この話は、私にとっても大きな発見であった。回折現象と比較して、XAFSの有利な点はこと結晶性材料の磁性に関しては少ないのではないかと悲観していたところだったので、これには大きく力づけられた次第である。

 その夜はYuriの家で私の歓迎パーティーが開かれた。参加者はメンシュコフ教授、ピリューギン博士、ジュリー、マイケル、ソニア、デュマ、レナ、Yuri、そして私の9人。昨日、ハイキングに行ったときにとってきたキノコが食卓に上る。聞くところ、キノコはロシアの代表的な食べ物で、何十種類もの食用があるらしく、その数はわれわれが日本で食べるものよりも多い。このキノコでウォッカをやるのがロシア流らしい。まず、一家の長が挨拶「For your Health, Toss (皆さんの健康に乾杯)」コップに告がれたウォッカを一気に干す。しばらくすると、またウォッカをついで、次の人に順番が回る。「日本とロシアの科学のために!トス」。こうして、最後に私の順番がきた。「私は、アジアとヨーロッパの接点を見極めることが第1の目的である(研究は2の次である)」と半分ジョークのつもりでトスの口上を述べたが、すぐに後悔した。ジョークの品というものは国柄で異なるので難しい。それでも、パーティー最後にピンク色のバタークリームのケーキが出てきて、懐かしさがこみ上げてきた。日本にはもうこのような純朴なケーキはなかなかお目にかかれない。
 

IV.エカテリンブルク(その2

 

 エカテリンブルクの街を歩く。すれ違う女性は皆美しい。まるで、映画の撮影場に紛れ込んだかのような錯覚に陥る。夕方になると、彼女らはキオスクでビールを買って、飲みながら歩いている。似合うといえば似合うのだが、びんビールをラッパのみしながらというのはちょっと困る。とうとうこの街にもマクドナルドが進出してきた。しかし、大半の人には高値の花だ。ただ、ロシアにはうまいものがまだまだあるので、マクドナルドは必要ないともいえる。

 郊外の農村地帯へドライブする。農村の一軒を見せてもらう。家の真中に大きなロシア式暖炉があって、その1部の上の方がベッドになっている。子供やお年寄りがその固いベッドで寝るらしい。いまでも、このロシア式ベッドは田舎の農家には残っているとのこと。

 最終日、研究室の仲間とYuriの家族でお別れパーティーを開いてくれた。目玉料理を作るので手伝ってみると、なんとそれは「餃子」であった。これは、僕も知っているというと、これは「プリメーニー」といってロシアの伝統料理だといって譲らない。中国4千年の歴史なんだけどな、とつぶやいて僕もそれ以上はいわないことにした。パーティーの後はみんなで踊って、お開きとなった。ロシア人は踊りも好きである。

 いよいよ、エカテリンブルクを発つ日がやってきた。朝早くの列車でウラル山脈の向こうのYuri Rutz教授に会いに行くことになっている。レナと朝食を取りながら、彼女は今にも泣き出しそうになっている。私はようやくそのことに気づいたが、なかなか言葉が見つからない。「私は2週間前の朝早くにここにやってきた。そして、今日また朝早くにここを離れる」と、意味もないことを最後の言葉として別れを告げた。「ウラル号」に乗りこむ。約1日の行程の列車旅行にマイケルが同行してくれた。マイケルは覚えたての英語を駆使して、サービス精神旺盛に景色を説明したり、日本について質問してくれるのだが、私はそろそろ一人になりたかった。
 

V.イジェフスク

 

 カラシニコフという機関銃を製造することで有名なこの町は、実は最近まで軍事上の理由で地図には載っていなかった。そもそもロシアのウラル山脈以東はペレストロイカ後に外国人が自由に旅行できるようになったのである。イジェフスクの町は政略的に兵器製造のために作られた町で、文化的な歴史はなく、言われてみればどこか殺風景な感じがする。エカテリンブルグでも重厚壮大なロシアらしい感覚を持ったが、それとも違う。ここで、以前にフランスと日本で会ったことのあるRutz教授の研究室を訪問する。フランスで会ったときに紹介された当時学生だったElena Voronina氏は立派な研究者に成長していた。私を市内観光に案内してくれ、夕食はRutz教授の自宅でパーティーとなる。やはり、For your healthのトスから始まり、ウォッカがどんどん注がれる。翌日に、研究所長表敬訪問と午後からセミナーの予定なので、あまりウォッカは進まなかった。Rutz教授はWe are bad drinker (たくさん飲む人をgood drinkerという)といって、残念がっていた。Rutz教授は私をしのぐgood drinkerであり、客人と飲むことが奥さんに対する免罪符になっているようだ。翌日は、英語の通訳の女性とともに所長室へ。通訳の女性はさすがにきれいな英語を話す。所長は英語を話さないので、所長のロシア語を英語に訳し、また私の英語をロシア語に同時通訳する。このときほど、自分の英語に自身がもてたことはなかった。その後、1時間のセミナーを行った。私の英語は別に上達していたわけではなくもとのままで、講演予定時間をオーバーした。しかし、セミナーのあとも熱心な理論研究者とElenaを交えて議論した。私は自分の研究を自慢しているだけだが、彼女らは熱心にさまざまなことに興味をもって聞いてくる。このような状況はカナダや他の先進国では少なくとも私に関してはありえない。その晩も、さまざまな種類のキノコとウォッカでロシアらしい夜を過ごした。

 

VI.シベリア鉄道

 

 いよいよ、Rutz教授とも別れをつげ、憧れのシベリア鉄道に乗り込む朝がやってきた。朝食を取りながらやはり奥さんが泣きそうになっている。ロシアの女性は別れを心から惜しんでくれるのだろうか。

 シベリア鉄道の車両は2人部屋であったので、Rutz教授は相棒をこの目で確かめるといって、車両に乗り込み、その人と何やら話している。どうやら、僕のことをよろしくと頼んでいるようだ。 サンクトペテルブルクで外科医をしているそのひとは、英語が話せない。しかし、表情と身振りで何とかなるもので、途中駅で町のおばさんが売りにくるビールや川魚の燻製をおごってくれて、二人で乾杯した。どちらもおいしかった。夕闇迫る頃、その外科医は「ボルガだ」「ボルガだ」と連呼して、窓の外を見遣った。薄暗い中に広がるボルガ川は雄大でさびしかった。ボルガに限らず、ロシアの風景は概して雄大過ぎるがゆえに物悲しい。これは、これから向かおうとしている、地球上のもうひとつの大国カナダとは対照的である。列車は薄暗い早朝のモスクワ駅に着いた。ホームに下りてその外科医と別れを惜しむ抱擁をした。思えば、われわれは一言も言葉が通じず(ボルガだけは通じた)ほとんど話をしていない。それで、一晩いっしょに過ごしたわけだが、どういうわけか心はとてもつながっていたのだ。

 

VII.モスクワ(その2
 

 モスクワでは三度マイケルが案内してくれる。赤の広場、復活したロシア教会、モスクワ川、ショッピングモールと現代モスクワは今も美しい町だ。ジュリーのいとこのマリアが会いにくる。いっしょに、バレエをみる。会場は、クレムリンの中の10年前までは共産党全大会が開かれた歴史的なホールである。各席に投票装置の名残がある。マリアもジュリーに劣らぬ美人であるが、しかし、自分の妻のいとこと腕を組んで街を歩くなんてのは、やはりロシア流かね。


 

VIII.カナダへ(さらばシベリア鉄道)

 

 いよいよ、ロシアを去る朝がきた。旅立ちはいつも朝だ。ロシア科学アカデミー専属の上級ホテルから、タクシーをよび空港へ。これから、フランクフルト経由でカルガリーまでとび、その後バンクーバーへ入る。ウラル山脈からみるとバンクーバーは偶然にも経度的にちょうど180度反対側になる。バンクーバーは現在、中国やインドなどのアジアからの移民が増え、さらにエキゾティックな町に変貌しつつある。ウラルで袂をわけたアジアとヨーロッパはバンクーバーで再び合間見えることになる。航空機はカナディアンロッキーの明るい陽光の中に到着した。目が合えば、人々は微笑みかける。カナダ特有のフレンドリーシップだ。天候の明るさだけではなく、人々の表情のなんと明るく、開放的なことか。ああ、ようやく私はカナダにきたのだと、安堵にも似た心境になった。しかし、一方で、もうこれでおいしい料理と美しい女性にはお目にかかれなくなったことも事実だ。ロシアは混迷深まるまだゴールさえ見えないこれからの国であり、カナダはまれに見るゴールに近い成功した国なのだ。

私は、空港ロビーでお世辞にもうまいと言えないホットドッグを買い、明るく笑う大柄なそばかす女性を見ながら、「さらばシベリア鉄道」とつぶやいた。


 

追記:

帰国してこの文章を書いているさなか、金属物理学研究所のメンシュコフ教授が亡くなった知らせを受けた。心からご冥福をお祈りする。