インドを旅して

私は昨年(1997年)11月にインド国内のX線分光の会議に招待されて初めてインドを旅する機会を得た。招待といっても、旅費は自分もちなのだが、かねてから行ってみたい国でもあったためすぐにOKの FAXを返した。

デリーから空路インドールへ移動し、会議の会場となるラトラム(Ratlam)までは迎えの車で走ることになった。距離は120km位なのだが4時間かかるという。なんとなく、日本とは違うなと感じてきた。走り出すと、持って行ったカメラ(アサヒペンタックスSPという骨董品)のファインダーから目が離れなかった。「土埃と喧騒とクラクションと牛と山羊と愛敬のいい人間」これらが私の体を圧倒した。ラトラムまでの120kmの間、農村と小さな町を入れ替わり通り抜けたが、車の通る道は1本きりで交差する道路はなかった。なるほど、農村には車道の必要はなかった。車中貪欲にシャッターを切り続けたが、もっとも貧しいと思われる農村の家々だけは写せなかった。人間としてはこれが限度ではないかと思われるような暮らしぶりを日本の知人にも見せたいと思う反面、やはり撮ってはいけないものを見ているようでだめだった。(インドの人は総じて写真に撮られることが好きだと気付くのはもう少し後のことである)。会議に行くのか、探検に行くのかわからないようなでこぼこ道を4時間走った後、われわれはVIP級の歓迎を受けた。会場はヒンドゥ教の僧院のようなところで、OHPを白い壁に写して講演を行っていた。これは、私がいつも研究室でやっている方法なのでうれしくなったが、いつのまにか立派なスクリーンが持ち込まれてしまった。いよいよディナーの時間となった。欧米での国際会議のディナーを想像して、うれしさを隠せなかった私はここでインドという国を知ることになる。昼食に食べたのと同じカレーと生野菜が出てきて、肉類とアルコールはなかった。(その後約2週間、肉類は一切口にしないことになるとはそのときはまだ予想できなかった)。同じようなカレーと生野菜が毎食続いた。それでも、米とチャパティー(小麦のようなものを練って焼いたもの、発酵させたナンは高級なもので会場では出なかった)はなじみの有るものだったので毎日飽きずに食べた。しかし、つい口を滑らせてインドの大学院生に「毎食これで飽きないか」と聞いてしまった。彼は、恐縮して「何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってくれ、肉もアルコールも用意する」といってくれたが、私は丁重に断わった。インドの人には酒を嗜まない人が大部分である。これはもちろん宗教的な理由によるのだが、そのほかに後で述べるように、インドにはストレスが少ないことにも起因していると私は思う。食べるもの、嗜好品、着るもの、習慣、インドではすべての生活がミニマムなのである。

ここで、インドの人々の研究発表に対する姿勢についてコメントしたい。私の英語力の貧弱さもあるのだろうがもう少し人にわかってもらおうとするサービス精神があってもよさそうなものである。わが道を行くという態度には精神の図太さを見た。それと、彼等は歴史的な背景を非常に大切にするようで、自分の発表に与えられた時間のほとんどをそれに費やしてしまう人が何人もいた。確かにこれは不親切のように感じたが、なんでも欧米の尺度に合わせてしまう日本と比較して、がんばれと言いたくなったことも事実である。ラトラムという町は人口30万人ということだったが、日本の都市と比較した想像は裏切られた。神聖な牛はもちろんのこと山羊やいのししやらくだが町中にあふれていた。先に言った下層の農民たちも含めての人口であった。家々を托鉢して歩く牛までいた。人と動物、豊かさ貧しさが3次元的な上下関係をともなわず、同じ平面に混沌として暮らしている。人々は動物に危害を加えることは一切なく、さらに人間同士のけんかや争いもついぞ目にしなかった。これが、ガンジーやマザー・テレサを生んだ国なんだなと同行の日本人と感想を述べあった。ラトラムという田舎の町は観光地でもないし、大きな会社があるわけでもないし、日本人どころか外国人が訪れる機会はほとんどないのではないかと思われる。大学院生たちは目を輝かせてわれわれに質問を浴びせた。そのなかで、「どうして日本はあれほどにエレクトロニクスで大成功を収めたのか」というのが多かった。「大事なものを失う気があれば君たちも経済的には成功するよ」と言いたかった。地元の自称セラピストという行者と「私の行っている業に対し、君たち科学者はどう思うか」といった内容でテレビカメラの前で対談させられたのには参った。美しい女子学生に囲まれて質問され、サインを請われたときにはここを離れたくないと思ったが、会議最終日45分間の講演を行い、ラトラムを去ることになる。

その後は同行者と別れ、文字通り一人旅となった。まずはアジェンタとエローラの石窟寺院に向かった。インドールからシャルガオンまでの交通手段を検討したところ、時間と体力節約のため400km、8時間をタクシーで行くことにした。ホテルで頼んでみると、翌朝非番のホテルマンが自分の車(インド製、アンバッサダー)で向かえに来た。寄り道をしながら8時間で目的地に着いたときにはかなり運転手とも親近感が湧いており、別れるときには涙が出そうになった。インドの街街を訪ねて感じることの一つに廃虚が多いことがある。作りかけのビルなんかが放ったらかしでなかにはそこに人が住んでいたりする。これはインドがもともと遺跡の多いところで、古いものが使われずにそこにあることに慣れているせいではないかと思う。時間が連続的に流れ、今あるものも現に遺跡になりつつあるという思想であろう。その後、ムンバイへ出て、植民地時代のシンボル「インド門」を見たとき、映画「インドへの道」を思い浮かべた。観光地では赤子を抱いた子供にお金を請われた。心を鬼にして断わると、さっさと次の日本人に向けて元気に歩き出した。あれも、一つの生きる手段であろう。この辺で残り日数が少なくなったので、しかたなく空路を利用してヴァナーラスゥイーへ向かった。一度は訪れたかった聖なるガンガーであった。しかし、田舎から観光地に足を進めるにしたがって、シーンの美しさに比例して人々の商魂はたくましさを増すのであった。ホテルに戻って旅向書を眺めると、注意されている通りにだまされていたりする。Noといえない日本人の心の奥そこを見透かされているようだ。実際、頑強にチップなんかを断わっても、だめだとわかれば実にあっさりしたものである。「少しくらい多めに払ってやるか」という優越感と「1ルピーも余分に払うものか」という卑屈な気持ちが交錯する。そのような経験はインド最大の観光地タージマハルでとどめをさされた。インド人というのは親切なのか狡猾なのか全くわからなくなった。インドールからそのまま帰国していればインド人に対して最高の印象をもったに違いない。

旅も終りに近づき、要するにインドというところはわけがわからないところであるということがはっきりわかってきた。さらに、「インドはこういうところです」と、人に説明することが無意味であることもわかってきた。普通、外国旅行なんかすると「あそこはいいよ」なんて言ってみたくなるものだが、そういう感覚はなくなった。「インドへ行ってきたよ」、ただそれだけだった。ただ1つ、この旅行で感じたことはこれだけ日本の生活とはかけはなれていたにもかかわらず、ストレスは一切感じなかったということである。そして、ストレスのあるインド人にも会わなかった。途中何度か不愉快な思いもしたのだが、それらすべての根底に人間らしさ、いや人間くささがあったからではなかろうか。インドには今でも文字言語を拒み続けている部族があるそうである。そこには役人も政治家も学校も存在する必要がなく、そのためフラストレーションはまったくないそうである。帰国していろんな本や記事でインドのことを目にしたが、やはりインドは「不思議」な世界である。