3   光を吸収すると?

 1.光の吸収 光が物質と関わる第一段階は,物質が光を取り込む過程つまり光の吸収です。この過程についてはアインシュタインの理論がありますが,ここでは略します。

 (a) プランクによると物質が持つそれぞれのエネルギーは連続ではなく,不連続です。物質が取る不連続な各状態のエネルギーをエネルギー準位(単に準位ということも多い)といい,図ではそのエネルギーに相当する高さの所に短い水平線で表わされます。図1aのように2つの状態1および2のエネルギーをε1, ε2ε1ε2)とすると,物質がというエネルギーを持った光を吸収して状態2に上がるためには,2つの状態間のエネルギー差Δε=ε2 -ε1でなければなりません。

                               

                                  1 光の吸収と2種類の光放出(黒い点は電子を表わす)

 物質がエネルギー的に取りうる状態のうち,エネルギー的に最低の状態を基底状態 ground state,それよりも高い状態を励起状態 excited stateといいます。図1では状態2が励起状態ですが,状態1は必ずしも基底状態とは限らず一般にはエネルギー的に高い状態のこともあります。具体的な状態の例は「3.励起状態のいろいろ」を参照して下さい。
 (b) 光吸収によって基底状態から励起状態に上がるとき,基底状態の電子が1個励起状態に上がります(図a)。電子はエネルギー的に不連続な状態間を,いわば川を飛び越えるように飛び上がるのです。これを遷移 transitionといい,電子が遷移することを電子遷移といいます。
 (c)  12つの状態1, 2は,その物質に固有の,性質の分った特定の状態です。このようにある状態が「〜の状態である」と特定することを帰属 assignmentといい,ある吸収帯を状態Aから状態Bへの遷移に帰属することをしばしば記号でA → Bと表わします。吸収スペクトルや発光スペクトルにおいては帰属はまず第一に重要なことですから,帰属できない場合は帰属自体が大きな研究目的になります。
 (d) 物質にはそれぞれに固有のエネルギー準位があり,従って吸収する光の波長も違うので目に見える色も千差万別です。物質がどの波長の光をどの程度吸収するかをグラフに表わしたものを吸収スペクトル absorption spectrumといい,通常は縦軸に吸光度,横軸に波長(または波数)を取ります。吸光度 absorbance(記号D)は,試料に光が入射する強度(入射光強度)Io,透過光の強度I との間に成り立つ関係式(ランバート・ベールの法則)によって次のように表わされます。
            IIo e-αcd(ランバート・ベールの法則)  (6)
            Dlog (IoI)  (7)
             =αcd  (8)
cは溶液のモル濃度(モル/l)dは光が試料を通過する長さで光路長といい,試料の入った容器(通常は光透過性のガラスでできたセルを指す)の幅に相当します。αは物質に特有の定数でモル吸収係数といい,良く使われるモル吸光係数ε(上述のエネルギーと同じ記号ですが,意味は異なる)との間には
            α2.303εcd  (9)          
の関係があります。
 (e)  吸収スペクトルには幾つかの種類があります。原子の場合は不連続線から成る線スペクトルですが,多くの多原子分子や化合物の吸収スペクトルは一般に山のように幅広い形をした吸収帯 absorption bandを示します。その吸光度最大の所を吸収極大,その波長を極大波長(λmax)といいます。実例は後述の図78を見て下さい。
 (f)  上で述べた(a), (e)から,物質が光を吸収するためには次の2つの条件が必要です。
  @  2つの状態間のエネルギー差に相当する波長の光を当てる

          そのために使われる波長の光を励起光,波長を励起波長といいます。

 A  その物質の吸収帯に相当する波長の光を照射しなければならない

   2.スピン多重度 光化学ではさまざまなスピン多重度を持つ各種の励起状態を扱います。従ってこれを知っておかないと光化学はなかなか面白く感じられません。

 電子は右回り,左回りのような性質といってよいスピンの性質を持っています。その性質を表わすのがスピン磁気量子数と呼ばれる量子数で,例えば電子1個について右回り(矢印↑)を1/2とすれば左回り(矢印↓)は-1/2という数値を取ります。符号,矢印の向きは反対にしても構いません。電子が複数ある場合は,スピンの向きを考慮した全体の数値すなわち全スピン量子数(記号S)を求めます。このとき2S1で表わされる量をスピン多重度(記号M)と称し,数値Mを持った状態をM重項というのです。スピン多重度は項を表わす記号の左上に数字で示します。例えば項をBとすれば以下のようになります。
(例1)電子1個の場合はS1/2M2二重項 doublet, 2B
(例2)電子2個でスピン対↑↓の場合はS0M1一重項 singlet, 1B),スピン平行↑↑の場合はS1M3三重項 triplet, 3B
(例3)電子3個でスピン↑↑↑の場合はS3/2M4四重項 quartet, 4B),スピン↑↑↓の場合はS1/2M2二重項 doublet, 2B)など。

 3.励起状態のいろいろ 光吸収によってどんな励起状態が生じるかはどの吸収帯を励起するのかということと密接に関連しますが,ここでは単に一般的に考えられる場合を述べます。

 (a) 有機分子(図2):基底状態はスピン対をつくった一重項S0です。基底状態から電子が1個遷移して励起状態になる場合,二通りがあります。一つは電子がスピンを変えないで遷移し,基底状態と同じ一重項になる場合です。この励起状態を基底状態と区別して励起一重項状態 excited singlet state(記号S, S1あるいは1S, 1S1など)といいます。図示していませんがエネルギー的にさらに高い所にも第二,第三励起一重項,・・・(記号S2, S3,・・・)があります。もう一つは電子がスピンを反転して遷移し,スピン平行の三重項になる場合です。一重項の基底状態と区別する必要がないので最低三重項状態 lowest triplet state(記号T, T1あるいは3T, 3T1など)と呼び,励起三重項とは言いません。この励起一重項と三重項はセットで存在し(S1T1, S2T2,・・・),三重項の方がエネルギー的に必ず低くなります。

                                   

               2 有機分子の励起状態                                3 Cr3+錯体の励起状態

 (b) 遷移金属錯体:金属によってd電子数が異なり,従ってスピン多重度が異なるので有機分子のように一律に扱うことができません。d電子数で扱うのが便利で,例として図3d電子数3d3系)のクロム(V)の場合を示しました。基底状態と同じ四重項の励起状態がありますが,有機分子とは違って個々の状態に固有の記号が付けられています。

 4.電子励起状態と振動準位 3で述べた励起状態は電子遷移によって生じますから電子励起状態 electronic excited stateと呼ばれ,一本の水平線すなわちエネルギー準位で示されています。図では省略されていますが,実はこのような各電子励起状態には分子の振動運動に伴う振動準位 vibrational levelと呼ばれるエネルギー準位がさらにあって,それぞれは振動量子数 v(=0, 1, 2, ・・・)に対応しているのです(図4)。今まで一本の線で示した電子励起状態は振動準位0の準位に相当しており,実際にはそれよりもっとエネルギーの高い振動準位があります。

                                                   

                                                                     4 振動準位

 5.さまざまな吸収(あるいは遷移) 吸収スペクトルには物質によって幾つかの吸収パターンがあります。

 (a) π-π*遷移:π電子系芳香族有機化合物に典型的な吸収で,基底状態のπ状態からπ*励起状態への電子遷移に基づきます。πは電子が占めるエネルギーの低い軌道のうちでエネルギー最高の状態であり,π*は電子が占めていないエネルギーの高い軌道のうちでエネルギー最低の軌道です。
      n-π*遷移:へテロ芳香族に見られる吸収。例えば窒素Nを含む分子には,Nの非共有電子対のうち1個の電子がπ*軌道へ遷移することによってこの吸収が見られます。
 (b) 遷移金属錯体の吸収:遷移金属錯体には以上のほかに次のような吸収があります。
       d-d遷移:錯体特有の吸収で,d軌道間の遷移に基づくのでこのように呼ばれます。そのほかに結晶場吸収,配位子場吸収などと呼ばれることも多くあります。
       電荷移動遷移:金属-配位子間の遷移に基づく吸収で,通常は電荷移動charge transferの頭文字を取ってCT吸収と呼ばれています。L(配位子) → M(金属)への向きに起こるLMCTと,M → Lへの向きに起こるMLCT2通りがあります。[Ru(bpy)3]2+MLCT吸収,MLCT発光の例として良く知られています。

           配位子遷移:錯体を構成する配位子自体による吸収で,多くはπ-π*遷移の結果です。

 (c)  禁制遷移2つの状態間の電子遷移が制約を受けない場合を許容遷移,制約を受ける場合を禁制遷移といいます。同じスピンを持った2つの状態間の電子遷移はスピン許容遷移であり,異なるスピンを持った2つの状態間の電子遷移は厳しい制約を受けるスピン禁制遷移です。例えば有機分子ではS1 S0はスピン許容遷移,S1 T1T1 S0はスピン禁制遷移です。
 スピン許容遷移は強度が強く,モル吸光係数が大きな値(ε>104)を取りますが,スピン禁制遷移は強度が非常に弱く,モル吸光係数は小さな値(ε<10)になります。n-π*遷移も理由が異なりますが禁制遷移です。
 (d) 光吸収で優先的に生じる励起状態は?:ランバート・ベールの式(6)から分るように,光を効率よく吸収するのはモル吸光係数εの大きな吸収帯です。言い換えればスピン禁制遷移による吸収は,εが小さいために光を吸収したとしてもその励起状態に存在する分子の数が小さく,無視して差し支えありません。従って光吸収によって生じる励起状態としてまず考慮すべきものは,有機分子ではスピン許容のπ-π*遷移によって生じる励起一重項状態S1であり,最低三重項状態T1ではありません。従って三重項状態T1はそのセットの相手S1を経由して生じるのが普通です。