1    光と私達

 1.自然界と光 光化学という学問が生まれた背景は,日常私達が光と深い関わりを持っていることを自覚すれば自ずと明らかではないでしょうか。以下のような具体的な例(a)(f)を思い起こしていただきましょう。

 (a)光合成 緑色植物や藻類が太陽から受ける光エネルギーを利用して二酸化炭素と水から有機化合物(炭水化物)と酸素を造り出すことです。言うまでもなく嫌気性生物以外の生物はこれによって生命を維持されているのであり,また地球上の炭素循環の主要な要素として機能しています。その作用は大きく4つの過程に分けられますが、そのうち第一段階,クロロフィルaによる太陽光の吸収が光化学に関連しています。
 (b)視覚作用 うっかりしがちですが,物をみるという視覚作用も光の働きによるのであり,明らかに光化学の対象に入ります。光は,網膜にあるかん体細胞と呼ばれる視細胞中でロドプシン(レチナールとタンパク質からなる)の働きによって捉えられ,その刺激が視神経を通して大脳に伝えられて視覚されます。
 (c)オゾンホール問題 地球に最初の大気酸素が藻類の営みによってできたのは20億年前と考えられています。しかしそれだけでは生物は陸上に進出できませんでした。太陽から降り注がれる紫外線が生命を維持するDNA(デオキシリボ核酸)を容易に破壊してしまい,有害だったからです。生物が生きていけたのは海だけでした。しかし皮肉なことに,その有害な紫外線が大気酸素に捕捉され,次のような光化学反応によってオゾン(O3)をつくるのです。
            O2hν (紫外線) OO  (1)          
              OO2 O3  (2)        

                                                                                                                                                                      

オゾンはもろいので絶えず生成,分解を繰り返し,気の遠くなるような年月をかけて現在のようなオゾン層ができました。このオゾン層が有害な紫外線を除くフィルターの役目を果たしているからこそ,陸上は多くの生物にとって住める場所になったのです。
 ところが1970年代後半から南極上空のオゾン層が著しく減少し,オゾン層に穴が空いたような現象が見られるようになりました。これはオゾンホールと呼ばれ,世界的な問題となりました。1974年アメリカのF.ローランドは,その原因が人間のつくり出した物質フロンにあると警告しました。それ以来各国でフロンを規制しようとの取り組みが強まっていることは周知のことです。オゾン層は生物が自らつくり上げた貴重な生命のバリアーなのだということを,いつも忘れてはいけないのです。
 フロンは正式名称クロロフルオロカーボンといい,ClFCからなるハロゲン化炭化水素の総称で,気体です。このほかヒドロクロロフルオロカーボン, ヒドロフルオロカーボンなど多くのフロンがあります。またフロンのうち,BrFを含むハロゲン化炭素は特にハロンと総称され,火災の消化剤として用いられています。
 (d)生物と光 代表的なものは生物発光で,その中でもホタルは素晴らしいですね。今はなかなか見られなくなりましが,夏の夜にホタルが光を放ちながら舞う姿は幻想的であり,日本の風物詩でもありました。海ではホタルイカ,植物ではヒカリゴケのような例があります。
 そのほか光に関係のあることがらを列挙すれば,屈光性(やってくる光の方向あるいはそれと反対方向に植物が屈曲する。植物ホルモンのオーキシンが関与する),傾光性(植物が光の刺激によって一定の運動を起こすこと。タンポポの花の開閉運動など),光周性(日長すなわち日光が射している時間によって植物が花芽形成の影響を受ける現象),走光性(動物が光に対して方向性のある行動を示すこと。蛾が電灯に集まってくるなどはこの例)等があります。
 (e)その他 よく経験する例を挙げましょう。
 @天気の良い日に運動会,海,山,川,スキー等で長い時間太陽からの強い日差しを受けたときになる日焼け紫外線の化学作用によるためであり,最近ではその危険性が言われています。これらの光障害とその修復は重要な問題であります。
 A夏の風物詩といえばもう一つ花火,いいですよね。私も幼い頃から(今でも)大好きです。
 B虹もきれいで心を和ませますが,これは光の反射,屈折によるものであり,光化学的な扱いには入りません。
 (f)レーザー 自然界に見られる現象ではなく,物理に基礎を置き,かつ光化学的知識を使って人間が産み出した傑作がレーザーです。今では非常に多くの分野に利用されていますが,その原理については4-4-eであらためて述べます。

 2.光化学とその位置付け 1では自然界を通して光が私達にいかに深く関わっているかを見てきました。そのとき次のような疑問が湧いてきませんでしたか。

 ○光合成において光はどのような役割を持っているか
 ○視覚作用でロドプシンの役割は何か
 ○大気酸素と紫外線とからオゾンができる機構,およびフロンがオゾン層を破壊する機構は?
 ○ホタルはどのようなしくみで光を出すのか
 ○紫外線がなぜ日焼けを起こすのか,なぜ有害なのか
こんな興味や疑問を持った人は既に光化学の入り口に立ったといってよいでしょう。これらは光化学の重要なテーマであり,今でも引き続き研究されている点も多いのです。光自身の重要性を意識し,あるいはそれをきっかけとして光が物質に与える影響等に興味,関心を持った先人によって光化学が生まれていったと考えて間違いありません。
 光化学は化学の一分野であり,一言でいえば「物質と光との関わり」,科学用語では「物質と光との相互作用」を研究する分野です。古い文献も散見されますが,本格的な研究は1950年代から始まったように思われます。当初は物理化学(化学では物理的な色彩の強い分野)的な研究が中心でしたが,のちに有機化学の人達が熱に代わるエネルギー源として光に注目するようになり,今では有機光化学として光化学の一角を占めるまでになっています。従って光化学は物理化学的光化学と有機光化学という2つの分野に大別することができますが,歴史的な経緯から前者は単に光化学と呼ばれています。
 光が主役なので扱う物質は本来何でもよいのですが,伝統的に多くの人がπ電子系芳香族炭化水素あるいはπ電子系ヘテロ芳香族炭化水素を取り上げています。私のように金属錯体を扱えば錯体化学の色彩が強くなります。
 どのような物質を扱うにせよ,光化学で最初の段階は物質による光の吸収であり,第二段階は光吸収によって生じた励起状態がそのエネルギーをどのように失うか,その道筋を辿ることです。後者は失活過程と総称され,その中心である光化学初期過程は知っておく必要のある重要な内容を多く含んでいます。以下この二つの段階を中心に述べていきます。